2012年12月04日

【強力なネタバレ】『スカイフォール』の謎


 「もう逃げるのは無理ね」
 「僕がついています」
 「私は、ただひとつ正しかった……」

 これは『スカイフォール』での、Mとジェームズ・ボンドの最後のやりとりだ。Mと共に死のうとしたシルヴァを倒し、ボンドがMを抱き起こすと、すでにMは深手を負っていて、ボンドの腕の中で息絶える。

 そこで場面は、急に、どこかの建物の屋上から市街を眺めるボンドに変わる。そこにイヴ嬢が現れる。きっとMI6の建物なのだろう。イヴは「こんな場所があったのね」と言い、Mの遺した言葉に渡すようにあったと、デスクに置かれていたブルドッグの置物をボンドに託す。「デスクワークをしろという意味かしら」というイヴに、ボンドは「違う。逆の意味だ」と答える。
 これがラストシーンのほぼ全てだ。『スカイフォール』は、こうして幕を閉じる。このあとに続くシーンはあるが、それは次への布石にすぎない。
 Mの死をもって、映画『スカイフォール』は、幕を閉じ

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 あれ?なんかおかしくないか? Mは死んだのか? いつ、どのようにして死んだのか? Mは、誰によって、何によって死に至らしめられたのか? この作品を通しての重要人物で、シリーズでも大きな位置を占めている人物が、戦いのさなかにたまたま負ったような傷で絶命したのか? 

    *  *  *  *  *

 この映画には鏡、鏡のように映り込むガラスが多用されている。敵であるシルヴァをボンドと対照的に、ボンドの鏡像として描いていることを示唆しているのだろう。タイトルバックでは、鏡の部屋をさまようボンドが次々と鏡を割っていく描写がある。鏡像を破壊していくボンドは、何かの実像を追い求めているようだ。
 では、この映画が、ボンドとともに、その行き着く先で追い求めたものは何だったのか? 鏡像を壊したボンドが、最後に手に入れた実像とは何だったのか?

 シルヴァを倒した後、Mがボンドの腕の中にあるシーンで、Mは「もう逃げるのは無理ね」と言った。戦いのさなかに傷を負ったMのセリフなので、当たり前のセリフとしてやり過ごしがちだが、よく考えてみると、このセリフには大きな謎がある。そもそもボンドとMは、逃げていたのではない。ラストの戦いのことだけを意味するのだとしても、シルヴァが絶命したことがわかっているのだから、逃げる必要などない。その直前にも目の前でシルヴァを倒したボンドに、Mは「遅かったわね007」と労をねぎらっているじゃあないか。その後のセリフなのだ。
 では、Mは何から逃げていたのか。

 アバンタイトルで、Mによる敵の狙撃命令を受けたイヴにより、ボンドは誤射される。撃たれて深い水の中に落ちていくボンドが映し出された後、映画はMI6本部にいるMの苦悩をとらえるのだ。
 ここにも、やや謎はある。あの状況でボンドに対する罪の意識を負うべきは、本来はイヴではないのか?ボンドを撃ったのはイヴだ。それなのに、そののちイヴという女は「ボンドを殺したから現場外されちゃったのよ」とヘラヘラしている。ヒゲを剃らせようとカミソリを持たせれば、「なになに?また私に命を託しちゃうわけ?」とヘラヘラしている。普通なら――普通の007の映画なら、ボンドとイヴの物語が展開されるはずだ。なのに、この映画はMの苦悩をとらえていく。
 考えてみれば、この場面からMは追い詰められ始めていたのだ。

 スカイフォールでボンドとMを出迎えたキンケイドは、武器庫でボンドの父が残したライフルを手渡す。そのライフルには「A/B」の刻印がある。その刻印が映し出されたあと、そのままカメラはMの表情をとらえる。「ボンドの父が残したライフル」なのだから、ボンドの表情をとらえるはずが、なぜかカメラが次に要求したものはMの表情だった。
 この場面が境界線だ。ここから先、Mは「逃げられない場所」へと入り込むのだ。幼少時代のボンドが敵から逃れるために隠れていたという屋敷の隠しトンネルを、Mは深い感慨と共に眺める。その深い感慨は、屋敷から荒涼とした景色を眺めるMにも結びつく。ライフルの描写から、Mの感慨はいっそう深まるのだ。映画は、Mの深まる感慨をとらえていく。
 映画は、そして観客はMをさらに追い詰めていくのである。

 キンケイドとMが逃げ込んだ建物に近づくシルヴァは、その前にある墓石に目を向ける。そこにはボンドの両親である「アンドリュー・ボンド」と「モニカ・ボンド」の名前が刻まれている。その文字を読んだシルヴァは、声を上げて笑う。ここで、ライフルにあった刻印は、このアンドリュー・ボンドの頭文字であったことがわかる。
 では、その下に刻まれてた「モニカ・ボンド」の名は、何を意味するのか。

 『カジノ・ロワイヤル』でジェームズ・ボンドは突然Mの自宅に現れる。どうして家がわかったのかというMに、あなたの本名も「M」の意味も知っていますとボンドは言うのだ。
 アデルが歌う『スカイフォール』の歌詞に「you may have my number you can take my name but you’ll never have my heart」という一節がある(numberは、CDの対訳には「電話(番号)」とあったが、もっと広く個人情報くらいの意味にとらえているものもあった)。「個人情報と名前はわかっても、あなたは私の心はわからない」ということだろう。これが『カジノ・ロワイヤル』から『スカイフォール』にかけて「M」としてボンドの前に立っていた女性の心境なのだろうか。
 ところで、ボンドは「M」という意味の何を知っていたのか。

 もう結論を明言するまでもない。Mはモニカ・ボンドである。『カジノ・ロワイヤル』によって改めて作られたジュディ・デンチ演ずるMはモニカ・ボンドなのである。ボンドの母であることから逃げ続けていたMは、『スカイフォール』のラストでついに追い詰められ、逃げ切れず息子ジェームズ・ボンドの懐に抱かれるのだ。「もう逃げるのは無理ね」とは、鏡像を壊し続けたボンドから逃げることを、彼女があきらめたことを意味している。「鏡像」ばかりで、シルヴァから「ウソつきだろう」とののしられたMは「私は、ひとつだけ正しかった」と言う。ひとつだけ正しかった「実像」が、このラストシーンで表れたMの姿なのである。

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 断言しよう! 映画『スカイフォール』において、Mは死んでいないのだ!
 シルヴァの手によって確実に殺されたのではない限り、Mが死んでいると考えるのは早計だ。Mが死んでいるかのように見せているのは、観客の目を欺くトリックだ。
 Mという役職に就いていた人物は去った。その魂は、遺されたブルドッグの置物に託されている。ブルドッグには、デスクワークに就くボンドの魂が入る余地はない。だから、屋上でボンドは「その逆の意味だ」とイヴに答えたのだ。
 では、そのブルドッグはどこに置くのか?イヴとのやりとりは、ブルドッグの置き場所がMI6という「職場」には存在しないことをも意味する。実際、デスクには違う人物がいる。
 ブルドッグは……Mという女性の魂は、ジェームズ・ボンドの家つまり『カジノ・ロワイヤル』からのシリーズで強調されていた、彼と彼女の生活領域に存在するのだろう。ブルドッグは、ボンドの家で、現場に赴くボンドを見守る存在になったのである。
 Mは生きているのだ。正しくは、かつてダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドの前で「M」であった女性は、まだ生きているのだ。ジェームズ・ボンドの母として。
ボンドはMに「僕がついています」と言った。その言葉が嘘でないのなら、ボンドは、今もMのそばについているはずなのだ。

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  「M」とは、motherでもあるわけね、ようするに。

posted by TcinemaholicT at 06:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする